茄子と牛

徒然なるままに駄文を捨て書く

プロペラ

 

 

数年前に他界した祖母は、戦争の話を嫌がった。

 

私が小学生の時、戦争について家族と話し合うという趣旨の宿題が出たことがあった。

純新無垢な子供は、「戦争に関するあなたの経験を語って欲しい」と頼まれた当事者の負担など、考えることもなかった。

 

祖母は「戦争なんて、なんにも、思い出したくもない」と、聞いたことのない痛々しい声で拒否した。

 

 

 

 

終戦の時、祖母は21歳で、5歳下の弟は海軍の特攻隊として招集され、16歳の若さで亡くなった。その弟から届いた手紙は、今でも大切に保管されている。

 

 

 

祖母が元気だった頃、彼女は毎月のお墓参りを欠かさなかった。

弟の眠るお墓を隅々まで綺麗にし、花を植え替え、線香を焚き、手を合わせながら眉間に皺を寄せた苦しそうな顔で、長いこと語りかけている。

そんなおばあちゃんの背中をずっと見てきた。

 

 

 

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私の地元のとあるお寺の裏には小川が流れており、そこには蛍が生息している。

当時8歳の私と祖母とで蛍を見に行った際、祖母は暗闇を怖がった。ただ暗闇が怖いのかと思っていたが、彼女は小川の対岸にある防空壕を見て怖がっていた。

今思えば、なにか辛い記憶、怖い記憶が紐づいているのだろう。

当時の私は「おばあちゃん、大丈夫?」としか声をかけられなかったが、その後、祖母と一緒に蛍を見に行くことは無かった。

 

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東京の上空をヘリコプターが飛ぶ。

プロペラの音は、頭上で轟き、空気を揺らし、私の心をも不安定に揺らした。

そのプロペラの音は、戦時中を思わせる。

 

 

 

愛と情

 

 

私が「(彼氏のことを好きかどうかわからないけど、)情があるから別れられないんだよね」と零した時に、友人は桑田佳祐の作詞を引用した。

 

「「愛情」という言葉があるように、愛がなきゃ情は湧かないんだよ。だから、好きって感情は無いかもしれないけど、彼氏に対する愛はあるんじゃない?」

 

 

深い。とても深イイ回答。

友人と桑田佳祐のおかげで、前向きな気持ちになれた。

 

 

 

 

 

若いカップルが「超綺麗」と言って足を止めた。

男性はスマホを取り出して、写真を撮り始めた。

桜の美しさはその儚さにある、と人は言う。春の訪れを告げたと思えば、風と共に去っていく。その潔い去り際に、桜に対する美意識が確立された。

 

        久方のひかりのどけき春の日に

                             しづこころなく花の散るらむ

                           (百人一首・三十三番歌・紀友則

 

人々は、桜の美しさを留めようとする。

昔は歌に、今は写真に。

 

 

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        世の中に絶えて桜のなかりせば

                                 春の心はのどけからまし

──この世に桜というものが存在しなければ、春における心情は穏やかでいられるだろうに。この世に桜があるばっかりに、少しも落ち着くことが出来ない。

 

伊勢物語』八十二段に収録されたこの和歌を巡って、皆で討論を重ねていく中で、「作者(業平)はなぜ、桜に対して落ち着かない心地になるのだろう?」という問いかけをされた。

「桜が好きだからこそ、散ってしまうことが特別悲しいのではないか。」「春というゆったりとした季節感の中で、桜は呆気なくぱっと散りゆく、そのギャップに心乱されるから。」「(ここで詠まれる桜は、目の前に存在する実態としての桜ではなく、概念としての桜を歌に詠んだもので、)散りゆくことの“ 無常観 ”や時間の流れを強く想起させるから。」など、沢山の意見が出た。

この和歌に関して言えば、業平は「概念としての桜」について詠んだのだろう。そして、桜を通して「無常観」を悟り、それを嘆いたのだ。

確かに日本人の美意識の一つには、消えゆくもの(消失)を愛でる気持ちがある。「終わりがあるからこそ、美しい。」この感覚は、現代社会を生きる我々にも解することのできるものだし、感性豊かな人にしてみれば脈々と流れているものである。

私が考えるに、業平は、「こうして見事な桜が咲いているのを見ると、嗚呼、この世に桜なんてものが存在しなければ、春をもっと心穏やかに過ごせただろうに。散りゆく運命と知っているから、寂しく感じてしまうものだなぁ」と思っていたのではなかろうか。

 

そして、業平の詠んだ「世の中に絶えて桜のなかりせば」を受け、別の人が以下のように返した。

        散ればこそいとど桜はめでたけれ

                                 うき世になにか久しかるべき

──あっけなく散るからこそ、桜はますます賞美に値するのだ。そもそもこの辛い世の中に、何が永続きするというのか。終わりのないものなど無いのだ。

業平の無常を悟り嘆く和歌を受け、この人は「嘆くようなことではないよ」と諭した。桜の散りゆく様を見て、無常を悟り、悲しみながらも “ 慈しむ ”。

 

 

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これを読んでいる皆様はどうだろう。桜を見て「綺麗だ」「美しい」と思いますか?もし、そう思うなら、それはどんな時ですか?

穏やかな満開の桜を見た時?散りゆく様を見た時?風に吹かれて一斉に花弁が舞っている様子? 是非、コメントで教えていただきたいです。

 

 

今日は花を散らす冷たい雨が降った。

ビニール傘に1枚、桜の花びらがぺったりと貼り付いているのを見て、私は綺麗だと思った。

やはりここにも無常の美があったのだ。

 

 

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駆け足

 

 

 

今日は、春をすっ飛ばして夏が来てしまったような陽気だ。

まだ順番待ちをきちんとできない子が、駆け足で遊具に向かっていくように、季節も自分の出番が待ちきれなくて、慌てて出てきてしまったようだ。

 

梅の花は盛りを迎えた。

桜はその蕾を開かんと力を貯めている。もうすぐでフルチャージ。

 

春の持つ生命力が、今日は夏に先を越されちゃったかな。

 

 

午前4時は朝だろうか。夜だろうか。

たった4日間の連休を好き勝手に生きていたら、生活リズムが狂ってしまった。 何事も堕ちる時は一瞬なのに、戻そうとするには途方もない時間と労力を要するのだと、こうなる度に実感する。

社会の活動時間に合わせた生活を送らねばならない私は、この昼夜逆転生活を矯正するために、18時に起床したばかりだったが、23時には布団に入り、眠りについた。 そして今(4時12分に)目が覚めた。

これを書き終えたらまた一眠りして、8時に起床しようかなと考えている。が、起きれる自信はない、、、

 

 

 

 

 

 

さっき目が覚めた瞬間に、「あぁ、星がみたい」と思った。夜空いっぱいに広がる満天の星を、この目で見たいと思った。東京は明るすぎて、ろくすっぽ星なんて見えない。

 

天体観望とかではなく、「ふとした瞬間に空を見上げたら星が一面に広がっていた」、そういう見方がしたい。

 

 

実家に帰省した時に、母屋に着いた瞬間、庭から見上げる空が好き。

星々が煌々としていて、その煌めきで空が薄ら明るくなるような、宇宙をも感じられるあの空間に身を置くのが何よりも好き。

冷たい空気に包まれながら、静寂の中で星がみたい。